おかぽん先生の日常と随想

犬と歩く

2024年02月28日 22:55

 本日(2024.2.26)霧雨の寒い中、犬と散歩した。犬の名はハリーである。由来は保護犬、雑種である。柴犬のようにしっぽが巻いているが、足が長い。柴犬となんらかの洋犬との雑種ではないかと思われる。推定3歳でうちに来て、2年と3か月が経過したので5歳ということにしている。去勢済みのオスだが、保護犬となってから去勢したのか、オス的な行動をしばしば見せる。俺は休日の午後の散歩を主に担当している。妻はほぼ毎日の朝と平日の午後散歩してくれている。ありがたいことだ。俺も徹夜して朝になった場合、稀に朝の散歩に行くこともあるが、ほんとに稀だ。休日の午後、俺がハリーを散歩に連れて行くときは、ハリーが俺を散歩に連れて行ってくれているような気がする。散歩後、血圧が下がっているので適度な運動なのだと思う。

 犬は飼い主と同じペースで歩くことができる、という論文があったと思う。探せば見つかるかも知れない。しかし、散歩していて考えることは、犬はおそらくリードが緊張するのがいやなのであり、飼い主はおそらく犬に引っ張られるないし犬を引きずるのがいやなので、両者のゆずり合いの結果歩調が合うのではないか、ということだ。これをもって気持ちが通じ合っているとっても良いが、お互いの妥協の産物といっても良いだろう。

 ハリーは野外で自立していたのだと思われる。というのは、散歩中に実にいろいろな食物を探して咥えてくるからだ。リードの許す範囲なので、俺の1メートル四方程度であるが、実にいろいろなものを持ってくる。俺がぼーっとしていると食べてしまうことがあるが、そのような食べ物の安全性が良くわからないので、このごろは食べるのを禁止するようにしている。それでも散歩中なにかしら探してきて、咥えてしまう。もしくは一口味見してしまう。どのようなものを探してくるかというと、トウモロコシの芯、うまい棒、各種鳥類の手羽元、各種鳥類の頭骨、各種鳥類の胸骨等である。時には生きたハクビシンや猫に狙いを定めることがあるが、ハクビシンを追跡するハリーに俺が追従するほど俺は早くは知れない。猫の場合は、猫の威嚇におじけづく。

 ハリーと散歩して考えることは、たくさんの動物が生き死んでゆくということだ。俺一人で散歩していても、各種鳥類の手羽元や頭骨に気づくことは滅多にないが、それらはひっそりと薮の中で土に還っているのだ。犬と歩くことは、少しだけ自分を自然の中に位置付け直してくれるような気がする。